『自分自身の価値』に怯えていた自分に

思春期を迎えて、『自分』という存在についての意識が強くなってくると、おそらく大抵の人が、内心で『自分自身の価値』というものについて、考え始めるのではないかと思います。

あるいは、明確に考えることはなくとも、無意識のうちに望んでしまうことはあるのではないでしょうか。

もっと私を認めてほしい。
理解してほしい。
好きになってほしい。

それはぜんぜん恥ずかしいことでもなんでもなくて、ごく自然な心の動きではないかなと思います。

僕は心理学の専門家ではないのですが……
『承認欲求』という言葉もあるように、自分の価値を実感したい、周りに知らしめたい、特別なものになりたい……
そう思う気持ちは、あって当たり前のものなんだろうと思います。

よく話に聞くのは、人は生まれてすぐから、幼いうちは、親が無条件に愛し、受け入れてくれる。
どんなに泣きわめいても、粗相をしても、暴れても、許してくれる。
そういった経験が、自己肯定感としてその子の精神を安定したものにするのだ、という話ですね。

逆に子供の頃に、親から満足に愛されなかったり、否定され、受け入れてもらえなかった子供ほど、自己肯定感が弱く、自分の価値というものが実感できない人間に育ってしまう。
で、その反動として、過剰に承認欲求が強くなり、自分を認めてもらうことに躍起になる。
『自分の価値』が欲しくて、でもそれを実感できなくて、精神的に不安定な人になってしまう。

もちろん、全ての人がそうというわけではなく、あくまでそういう傾向がある、という話ではありますが。

で、僕はというと、二十代の半ばごろまで、完全にその『自分自身の価値』が実感できずにいた不安定な人間でした。

(ここからは、また暗い話になってしまうのですが)
前のエントリーにも書きましたが、僕の少年時代はというと、DQN祖母に預けられて、小・中学生時代のほとんどの期間、祖母からの精神的・物理的虐待を受けて育ちました。

身内の恥を書くようでアレですが、祖母は昔から性格が自己中心的かつ(おそらくは)悲観的で、自分は恵まれていない不幸な人間だと思い込んでいる人なんだと思います。
だから常に、周囲の人のために自分は犠牲にされている被害者だと思い込んでいて、自分が人に『してやった』ことは後々まで覚えていて恩に着せるけど、人からしてもらったことは『自分は人一倍不幸なんだからその分してもらえて当たり前』と考える、本当にどうしようもないタイプ。
その割に見栄っ張りなので、一応外面だけはいいから始末に負えない。

一体どういう人生を歩んだらそんな思考になってしまうのか孫の僕にも理解できませんが、若いころにはそれなりに苦労もしてたという話なので、その過程に性格を歪ませるような何かがあったのか、元々性格が歪んでいたせいで苦労する羽目になったのか……
さすがにそこまではわかりません(ぶっちゃけ知りたくもない)

まあ祖母のパーソナリティは置いといて、そのとばっちりで長年の被・虐待生活を余儀なくされた僕も、当然その影響で、性格の歪んだ大人になりました。

幼い子供の頃から、毎晩のように酒に酔った祖母に

「お前さえ生まれてこなければ、私がお前の面倒を見させられずに済んだのに」
(実際には、「僕と妹の面倒を見てやる」という名目で母から生活費をせびり取っていた)

「お前のせいで、父さんと母さんは別れて不幸になったんだ」
(実際は、祖母が父方の家族と揉めたことが原因で母と父が離婚することになった)

「お前の母さんがお前を捨てて他の男の元に走ったから、仕方なく私が面倒見てやってるんだ」
(これも全くの嘘。実際には祖母の要求する養育費を稼ぐために、母はより稼げる遠方の土地へ出稼ぎに行かざるを得なかった)

なんてことを繰り返し繰り返し、罵詈雑言としてぶつけられ、何かあるたびにすぐブチ切れる祖母から、理不尽に殴る蹴るされる毎日。
そんな風にして育てば、やはり「自分は生まれてきてはいけなかった、価値のない人間なんだ」と考えるネクラな子供に育っちゃうわけですよ(´・ω・`)

しかも祖母はその嘘を、ご近所のおばちゃんたちや、学校の先生にまで吹聴する始末。
そんなわけで周囲の大人たちにとっても僕は、『男にだらしない女が捨てていった可哀想な、でも面倒みてくれている優しいおばあちゃんには反抗的な問題児』という目で見られていたようです。
まったくもう、みんなタンスの角で足の小指ぶつけて骨折しちゃえばいいのにね!(^ヮ^)

そんな幼少時代の反動で、僕はとにかく『特別なもの』になりたかった。
自分が『生まれてこなくてよかった人間』ではない、価値のある存在なのだということを証明したかった。

逆に言えば、普通に高校・大学を卒業して、就職して普通に会社員になって、安定した暮らしをして……。
なんていう『普通の人生』なんて、考えられなかった。

今は『普通の人生を生きる』ってことが、どれほど大変で、そして幸せなのかということもよくわかるけれど、若い時はそんなものオレとってはクソ食らえだ、ロックに生きていつか大物になってやるぜ、的な感じでした。
恥ずかしいね(/ω\)でへへ

でもそうして未来の自分に夢を見ないと怖くて怖くて仕方がないくらい、僕は『自分には本当は価値なんかないんじゃないか……?』って恐怖に、内心ずっと怯えていた気がします。

だからこそ、人に認められたかったし、自分の(あるかどうかも正直わからない)才能を示そうと躍起になっていたし、悪く言えば中二病のような状態がずいぶん長いこと続いてました。
そして、自分を認めさせることにばかり気を取られて、周りの人が自分に向けてくれる気遣いとか優しさとか、あるいは好意とか、そういったものを察して、それに応えられるだけの余裕が全くなかった。

今思うと、その当時に付き合ってくれていた人たちには、申し訳ない気持ちでいっぱいです(´・ω・`)

今も正直、どこまで周囲の人のそういった優しさに気付けて、応えられているか、あまり自信はないですけれどね。

さすがにもういい歳になって、祖母から受けた虐待の日々も(怨みを忘れることはおそらく一生ないでしょうが)ある程度過去のこととして笑い話にできるようになったし、今の僕は他人に何を言われようと、自分自身の価値に怯えることはなくなりました。

逆に誰かから「お前なんか無価値だ、死んでください」って言われても、
しらんがな
って返して終わりだと思います。
自分を「要らない」ってわざわざ言ってくるような人は、それこそ僕にとっては親しくなる価値もない「要らない」人だもんね。

そう開き直れるようになると、意外と人生というのは気楽に生きられる。
たとえ誰かに陰口叩かれようと、否定されようと、自分が恥じることはしていないと思うのなら、(気分は悪いけど)思いつめるほどのダメージにはならないし。
逆にそういう相手を自分の人生から切り離していけばいいだけなんで、楽です。

会社員やってて、上司とか同僚とかがそういう相手だと中々縁も切れないけど、それもフリーランスになった今では、仕事で関わる相手を自己責任で選べるので、そういう意味でも今の自分の人生は(経済的には裕福とは言えないけれど)なるべくしてたどり着いた道だったのかな、という気がしています。

……と、長くなっちゃったけど、何が言いたかったのかというと。

過去の自分自身(と同じように、自分の価値に苦しんでいる人)に向けて、今の自分から言いたいことなんですけども……。

たぶん、あなたが思っているほど、あなたは無価値なんかではない。
だから怯える必要も、周りに認めさせようと頑張り過ぎる必要もない。
むしろ、その気持ちの焦りが、あなたの視野を狭くして、人生を面白くないものにしているんじゃないかな。

『自分が認められる』ということは、結局のところ、ただの『結果』でしかない。
自分が積み重ねてきた様々なことと、それに対する周囲からの(ちょっとしたことでひっくり返る程度の実に曖昧な)評価。

誰かから認められることは確かに嬉しいことだし、生きていてよかったと思えるほどの喜びが得られることも多々あるけれど、本来、自分の価値は他者からの評価によって定められるものではない。
人気絶頂のアイドルだって、ちょっとしたスキャンダルで蛇蝎の如くファンから嫌われることはままある。
でもそれで、その人が『生きている価値がなくなった』なんてことにはならない。
むしろそうした苦難の経験が、その人の人柄をより豊かに成長させることも、長い目で見ればあるかもしれないよね。

周りの人を大事にして、恥じる必要のない生き方をしていれば、焦らなくても『自分の価値』はいずれ手に入る。
逆にそれに気づかないうちは、自分も苦しいし、そんな余裕のない自分を、周囲の人も認めてはくれない。

……と、こんな感じの話を、昔の僕にしてくれる『大人』がいたらよかったのになぁ。

まあもっとも、『答え』なんてものは、自分で悩んで見つけなければ、他人にアドバイスやお説教されたところで、中々身につくことでもないのかもしれないけど(´・ω・`)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。